藤原定家の『近代秀歌』

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近代秀歌 - 百人一首 - 偏見文学史 - ハイパー定家仮名遣 - ハイパー定家指遣


きんだいしゅうか【近代秀歌】
歌論書。1巻。藤原定家の著作として最も信頼すべきものの一。1209年(承元3)成立。元来、源実朝のための作歌指導書で、詞ことばは古きを慕い、心は新しきを求めるべきことを主張、経信・俊頼以下の近代歌人の秀歌を挙げる。後に定家は、例歌を入れかえた。(広辞苑第五版より)

今はそのかみのことに侍るべし。
ある人の「歌はいかやうによむべきものぞ」と問はれて侍りしかば、愚かなる心に任せて、わづかに思ひ得たることを書きつけ侍りし。
いささかのよしもなく、ただことばに書き続けて送くり侍りし。
見苦しけれど、ただ思ふままの僻事に侍るべし。

やまとうたの道、浅きに似て深く、易きに似て難し。弁へ知る人またいくばくならず。
昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、詞強く、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の体を詠まず。
それよりこのかた、その流を承くるともがら、ひとへにこの姿に赴く。
ただし、世下り人の心劣りて、たけも及ばず、詞も賤しくなりゆく。いはむや近き世の人は、ただ思ひ得たる風情を三十字に言ひ続けむことを先として、さらに姿詞の趣を知らず。

これによりて、末の世の歌は、田夫の花の蔭を去り、商人の鮮衣を脱げるがごとし。
しかれども、大納言経信卿、俊頼朝臣、左京大夫顕輔卿、清輔朝臣、近くは亡父卿、すなはちこの道を習ひ侍りける基俊と申しける人、このともがら、末の世の賤しき姿を離れて、つねに古き歌を恋ひ願へり。
この人々の思ひ入れて秀れたる歌は高き世にも及びてや侍らむ。

今の世となりて、この賤しき姿をいささか変へて、古き詞を慕へる歌あまた出で来たりて、花山僧正、在原中将、素性、小町が後絶えたる歌のさま、わづかに見え聞こゆる時侍るを、物の心さとり知らぬ人は、新しき事出で来て歌の道変りにたりと申すも侍べし。
ただし、このころの後学末生、まことに歌とのみ思ひて、そのさま知らぬにや侍らむ。
ただ聞きにくきをこととして、易かるべきことを違へ離れたることを続けて、似ぬ歌をまねぶと思へるともがらあまねくなりにて侍にや。

この道を詳しくさとるべしとばかりは思う給へながら、わづかに重代の名ばかりを伝へて、あるいは用ゐられあるいは誹られ侍れど、もとより道を好む心欠けて、わづかに人の許さぬ事を申し続くるよりほかに習ひ知ることも侍らず。
おろそかなる親の教へとては、「歌は広く見遠く聞く道にあらず。心より出でて自らさとるものなり」とばかりぞ申し侍りしかど、それをまことなりけりとまでたどり知ることも侍らず。
いはむや老に臨みて後、病に重く憂へも深く沈み侍りにしかば、詞の花色を忘れ心の泉源枯れて、物をとかく思ひ続くることも侍らざりしかば、いよいよ跡形なく思ひ捨て侍りにき。
ただ愚かなる心に今恋ひ願ひ侍る歌のさまばかりを、いささか申し侍るなり。

詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿を願ひて、寛平以往の歌にならはば、おのづからよろしきこともなどか侍らざらむ。
古きを恋ひ願ふにとりて、昔の歌の詞を改めず詠み据ゑたるを、すなはち本歌とすと申すなり。
かの本歌を思ふに、たとへば、五七五の七五の字をさながら置き、七七の字を同じく続けつれば、新しき歌に聞きなされぬところぞ侍る。五七の句は、やうによりてさるべきにや侍らむ。

たとへば、「いその神ふるきみやこ」「郭公なくやさ月」「ひさかたのあまのかぐ山」「たまぼこの道行き人」など申すことは、いくたびもこれを詠までは歌出で来べからず。
「年の内に春は来にけり」「袖ひちて結びし水」「月やあらぬ春や昔の」「桜散る木の下風」などは、詠むべからずとぞ教へりし。
次に、今の世に肩を並ぶるともがら、たとへば世になくとも、昨日今日といふばかり出で来たる歌は、一句もその人の詠みたりしと見えむことを必ず去らまほしく思う給へ侍るなり。
ただこの趣をわづかに思ふばかりにて、おほかたの悪し良し、歌のたたずまひ、さらに習ひ知ることも侍らず。
いはむや難義など申す事は、家々に習ひ所々に立つるすぢおのおの侍るなれど、さらに伝へ聞くこと侍らざりき。
わづかに弁へ申す事も、人々の書き集めたる物に変りたることなきのみこそ侍れば、はじめて記し出だすに及ばず。
他家の人の説、いささか変れること侍らじ。

定家