狂言綺語(きょうげんきぎょ)とは、形而上の芸術あるいは象徴主義か

藤原定家の和歌は、自身は「有心」と概念化しているが、他の凡庸な詩人は「達磨歌」などと扱き下ろしている。つまり難解で、もはや歌ではないということである。

狂言綺語は、「きょうげんきご」または「きょうげんきぎょ」と読み、道理のない言と過ぎた修飾の語ということで、これまた定家の歌の批判である。

新古今和歌集と、定家の入撰歌について、語れば長くなるので、今回は一首のみ。

  • 霜まよふ空にしをれし雁が音のかへる翼にはるさめぞ降る

最後で分かることだが、春の歌である。

陰鬱で悲惨である。

渡り鳥の雁は、やまとに来た冬には翼が霜にまみれ、旅立つ時はまた、春の雨にうち拉がれる。

鳥に思いを致せば「あはれ」そのもの、だが禽獣が、己の持って生まれた性を嘆くはずもない。

あくまでも観念的な情景であり、歌のために設定されただけの素材である。

新古今は、やまと歌の集大成であり、また言葉の芸術の最高峰である。

言葉の芸術は、本来は現実とは無縁であり、また世俗から離脱できたところに、最後の和歌集が絶対文学となり得たのである。



なお、後者のカスタマーレビューのhyperteikaは編集人のものである。

三十一文字にたくされた心象、風景、思想。やまとうたは芸術の頂点である。また人それぞれであろうが、万葉のように自然や神神との交感もなく、古今のように常住坐臥の礼賛もなく、ひたすらことばのみで構築される架空の宇宙。
抽象的で形而上のうたを味到することによって、至高の時、究極の芸術を堪能する。藤原定家とその他の歌人たちが、苦しみ悶えながら紡ぐ一行一行を、命尽きる前に一度は愉しんでいただきたい。芸術作品としてたった一品をと云われた時に間違いなく推薦できる秀逸の歌集である。

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